「ナキウサギの鳴く里づくりプロジェクト協議会」の小島望と申します。よろしくお願いします。協議会の紹介も兼ねてお話しさせていただきたいと思います。私の話は他の演者の方々の前座のような性格で、総論的な内容となります。具体的な話は他の演者の方から話していただけるかと思います。
今日のシンポを主催する「ナキウサギの鳴く里づくりプロジェクト協議会」は、様々な角度から生物多様性保全を考えていく「まちづくり市民団体」です。通常の自然保護団体とは少し違っていて、生物多様性保全の考え方を取り入れながら「まちづくり」に関わっていく団体です(図1)。具体的な事業を通じて、人と野生動物の軋轢を一つ一つ取り除いていく、あるいは人と人との繋がりを地域の魅力へと変えていくことを「まちづくり」と考えて、様々な取り組みを行なっています。団体名の中にナキウサギの名が入っているのは、富良野地域の生物多様性のシンボルとして位置づけているからです。しかし、ナキウサギだけを守ろうとするものではありません。私たちの団体が活動する富良野地域の夕張山や芦別山という山塊に分布するナキウサギ個体群が環境省のレッドリストの「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に指定されていることもあって、生物多様性保全をすべき地域のシンボルとしているのです。
次に私たちの団体が活動している富良野は、周りは山に囲まれ自然豊かで、北海道内でも多くの観光客の立ち寄る、集まってくる観光地として有名な場所であり、人と自然との関係を考えるうえで理想的な環境にあります。私たちの団体が東京のシンポで野生動物への「餌づけ」の問題を取り上げる理由は、あらゆる観光地に共通する問題であることを知っていただきたかったからです。そして、観光地には国内のあらゆる地域から人が集まってくるため、観光客となる皆さんを含め多くの人の協力が必要になるので、全国発信というかたちを取ってより多くの人に知っていただきたかったからです。
余談になりますが、私自身が現在埼玉の短大に所属しながら、なぜ富良野での活動に関わっているのかといいますと、5年ほど前まで北海道に住んでいてフィールド(拠点)が富良野にもあり、そこでの長年の調査・研究が活動に関わるきっかけとなったからです。
本題に入ります。野生動物に餌を与えることによって生じる問題を、「餌づけ問題」と定義します。次に、その「餌づけ問題」を大きく三つに分けて考えます(図2)。一つ目に、生態系のバランスを崩壊させてしまうこと。二つ目に、感染症を伝搬させてしまうこと。これは人が野生動物にうつしてしまう時もありますし、野生動物が人にうつしてしまう時もあります。三つ目に、人間の生活圏へ動物が接近し過ぎてしまうこと。野生動物が人間の生活圏に入ってくることによって様々な軋轢や摩擦が生じています。
まず、一つ目の生態系が崩壊させてしまう危険についてお話しします。野生動物に餌を与えることによって餌を与えた種の栄養条件や繁殖条件がよくなり、繁殖率や生存率が上がって、個体数が増加してしまいます。微妙なバランスの基に成り立つ生態系では、一部の種の個体数だけが増加してしまうと、競争・競合関係にある他種を圧迫して、生物間の関係性が崩れてしまう危険性が指摘されています。
二つ目の感染症の伝搬について。人が野生動物に餌を与える際に、動物が持っている病原体に感染してしまう危険性があります。例えばキタキツネはエキノコックスという寄生虫をかなり高い確率で持っています。エキノコックス症は本州ではあまり聞きなれませんが、北海道では誰もが知っている病気です。寄生虫が体内に入り、潜伏期間は10~20年といわれ、病状が顕在化する頃には治療が困難となるようです。初期の頃なら治療が可能らしいですが、後半になると手の施しようがなくなる結構怖い病気です。こういった病気に感染してしまう可能性があります。
反対に、私たちがペットや家畜などの病原体を運んでいる場合があります。私たち自身は発症しませんが、予期せぬところでそれを他の動物に感染させてしまうことがあります。例えば餌台を使って小鳥に餌をやると、鳥が死んでしまうことがあります。それは人が持っている病原体を感染させてしまったからです。北海道ではスズメが何百羽と大量死した事例があり、これは餌台を通じて感染したサルモネラ菌が原因ではないかと指摘されています。
三つ目の動物が人の生活圏への接近し過ぎてしまうことについて。例えば畑でスイカがなっていてそれを野生動物が食べてしまうとします。動物側には、そのスイカが大事に育てられて出荷を待っているのか、放置あるいは廃棄処分されたのかの区別はつきません。商品価値のない、あるいは収穫しても売り物にならないからといって放置されている農作物は食べても怒られませんが、そうでないものも同じように食べてしまいます。そうなると「獣害」ということになって、農作物に誘引されて人里に降りてきたサルやクマ、イノシシなどは駆除されてしまいます。農作物はもちろん、不適切にゴミステーションに捨てられている生活ゴミや残飯なども、野生動物を誘引する原因となっています。これを「餌づけ」とするには違和感を持つ方がいるかもしれませんが、意図的でなくとも、知らず知らずのうちに餌づけしているのと同等の状態になっている点で「非意図的餌づけ」であると考えられます。
餌づけによる影響について、その全体像をフローチャートにまとめたものが図3になります(図3)。餌づけの影響をいくつか挙げましたが、意図的な場合でいえば、餌を与えたサルの一部に病気の発症や奇形の発生が確認されています。人がサルに与える加工食品などには様々な添加物が含まれており、動物にとってそういった添加物が病気や奇形の原因になるらしいのです。また、個体数の増加や異常繁殖によって、限られた給餌場所に動物が集中してしまうと、感染症などが非常に流行りやすくなります。水鳥は一カ所におびただしい数が集められて餌づけされている場合が多く、そこで一旦病気が発生してしまうと、感染症は急速に伝搬していきます。
さらに、意図・非意図的餌づけに関わらず、動物が人馴れをしまうと警戒心が低下して、その動物の行動や分布に変化が出てくると指摘されています。このことと、一部の動物が人里に降りてきて、人身事故や交通事故、農作物の被害を引き起こしていることとは決して無関係ではないでしょう。キタキツネの中には北海道で「おねだりギツネ」といわれる、観光客に餌をねだる個体がいるのですが、そうなると車を怖がらなくなります。車が来ると餌をくれると思って寄ってきて、交通事故が起こったりもします。
以上のように、餌づけ行為は、意図・非意図的に関わらず、その個体を殺してしまう、あるいは捕獲されて駆除されてしまうというように、動物を死へと追いやる可能性を高めてしまいます。餌を与える人はそう思っていないかもしれませんが、状況によってはこのような悲惨な結果につながってしまうことを知るべきでしょう。最悪な場合には種の絶滅にも関わってくるかもしれないことも。
「餌づけ問題」がなかなか認識されないことの背景には、趣味やマナーなどの個人的な問題として放置されていることや、野生動物をペットであるかのように考えている人が多くなっていることがあると考えられるのではないでしょうか(図4)。また、餌づけは非常に便利で安易な動物との接触方法です。通常であれば警戒して近寄らない野生動物も、餌を与えられて人馴れしてくれば簡単に姿を現してくれるわけで、動物をあまり理解せずとも接近でき、かつ簡便であるが故に危うい手段であるともいえます。このように餌づけを肯定する考え方全てには、共通して自然への理解が不足しているように思えます。
論点を整理すると、「餌づけ問題」には、個人の趣味や価値観の問題とされていて議論が深まりにくかった点があったかと思います(図5)。ただし、獣害や種の絶滅までに発展するような事例が今後多く出てくるとなると、個人の趣味やモラルの問題では済まされなくなってきます。例えば水鳥への餌づけでは、一年を通して何百トンもの大量の給餌をしている場所がいくつもあります。それらが及ぼす影響や発生するであろう様々な弊害を考えると、その責任はとうてい個人や任意団体の負えるところではないでしょう。
野生動物は飼育動物(ペット)とは違うことを明確にするのも重要です。例えば東京都のように地域猫制度と呼ばれるネコに餌を与えて管理する取り組みを支援している自治体があります。TNR(Trap-Neuter-Return)は、罠を掛けて野良猫を捕まえて、不妊手術を施して放す方法で、放されたネコは地域猫として安定したナワバリを持つことができ、発情期の独特の鳴き声やスプレー行動も抑制されます。もちろん子猫が生まれて増えるということはなくなるので、近隣からの苦情も減っていきます。その一方で、この制度の存在を知らず、ネコの餌やりと野生動物であるカラスの餌やりとを混合して条例で禁止している区があり、トラブルの元になっています。
野生動物への餌づけであっても、絶滅危惧種への給餌は緊急措置として区別する必要があります。ただし、餌を採ることのできる環境改善がなされと同時に個体数が回復されれば、中止するのが原則であると考えます。
野放図に広がる餌づけに対する規制として、まずは利益に直結する餌づけの規制が必要だと私は思っています。しかしその前に、餌づけ行為は自然への理解・認識不足が元になっていると思われるので、環境教育と連動して規制を進めていくのが不可欠だと考えています。
まとめです。野生動物への餌づけは単なる価値観の違いでは済まされない問題となってきています。人と野生動物との軋轢の要因となっているうえ、結果的に野生動物を死に至らしめる行為にもつながっていることを私たちは知るべきだと思います。それを微笑ましいことのように扱うメディアのあり方も問われています。お手軽な自然とのふれあいを求めるよりも、動物たち本来の生息地や生息環境が破壊、あるいは悪化していることにこそ目を向けて手を差し伸べるのが自然保護のあるべき姿だと考えます。